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豊前宇都宮氏Ⅱ
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 宇都宮氏墓所
    宇都宮(城井)鎮房公

鎮房(しげふさ)の代には城井谷を本拠地とし、城井氏を名乗っていた。
天正十四年(1586年)より始まる豊臣秀吉の九州征伐によって、鎮房も秀吉に従うこととなったが、
自身は病と称し出陣せず、嫡子の朝房に僅かな手勢を任せただけであった。天正十五年(1587年)
秀吉は鎮房に伊予国への国替えを命じた。父祖伝来の地を守りたい鎮房はそれに反発、今治返上
と本領安堵を願い出た。中津城に入った秀吉の参謀黒田孝高と不穏な空気が流れることとなった。
鎮房の心情を良く知る企救・田川両郡の新領主毛利勝信は、鎮房に一度城井谷城を出て、その後
秀吉への嘆願を行うことを提案し、鎮房は城井谷城を明け渡した。しかし秀吉は城井氏の本領安堵
を拒否。鎮房はついに決断し、同年十月 城井谷城を急襲して奪回した。
激怒した秀吉は黒田孝高・毛利勝信に鎮圧を命じると共に、毛利輝元・吉川広家にも派兵を命じた。
地の利のある鎮房はゲリラ作戦により、攻撃してきた黒田孝高・長房親子が率いる豊臣軍を撃退。
天険の要塞である城井谷城攻略に苦戦し、命からがら逃げ延びた。

天険の要塞である城井谷城攻略に苦戦した孝高から、本領安堵と鎮房の十三歳になる娘・鶴姫を
長政に嫁がせる事を条件に和議を受け入れた。
天正十六年(1588年)四月 肥後で起こった一揆の鎮圧の為、如水が派遣され、鎮房の嫡子朝房
もわざわざそれに随行出陣させた。
鎮房は如水・朝房が留守の間に長政の執拗な招きにより中津城へ向かったが、孝高が長政に授け
た謀略により、庶子の空誉が住持している合元寺に家来は留め置かれた。
鎮房は中津城にて謀殺され、激戦地となった合元寺の壁は真っ赤に染まったという。さらに鶴姫
も侍女ともども磔とされた。また、鎮房の父・長甫も城井谷で殺害され、嫡子の朝房も一揆鎮圧
の為に出陣中であった肥後国で黒田孝高・加藤清正らによって殺害された。念入りに企てた陰謀
である。しかし、懐妊していた朝房の妻(竜子)が逃げ延びて男子(宇都宮朝末)を産み、その
孫の宇都宮重房は越前松平家につかえ、豊前宇都宮氏の血筋は保たれた。

   ※鎮房公の死後、中津城に鎮房の亡霊が出没し、長政はその亡霊に恐れおののいた。
    孝高は戦国の世とはいえ、勇将であった鎮房を謀殺で殺害したことを悔い、中津城内
    に城井神社を創建し、その霊を祀っている。後に黒田氏の居城となった福岡城にも
    創建されている。
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  豊前宇都宮氏   宇都宮朝房の最後   
  宇都宮鎮房公   城井谷 野いばら伝説 
  宇都宮氏墓所
  盆口説「城井落城物語」
 曹洞宗 月光山天徳寺
〒829-0123 福岡県築上郡築上町本庄361
℡ 0930-54-0258
  盆口説(ぼんくどき) 「城井落城物語

     盂蘭盆会に踊られる盆踊り、寺の境内や町の広場、初盆家の庭などで他界から帰ってくる
     精霊を迎え祭り、再び送るための盆踊り。
     天徳寺のあるここ本庄では、今も毎年口説かれ踊りつがれ、伝承される。その中の一つで
     ある 「城井落城物語」を紹介します。  
     鎮房公は戦に強く、領民に慕われた名将であったと、口説のなかで偲ばれる。   
  ※宇都宮(城井)長甫 ・ 鎮房 ・ 朝房 の滅亡と共に消えた「艾蓬(がいほう)の射法

    「艾蓬の射法」とは神巧皇后が三韓征伐で用い、中臣氏がこれを承け継ぎ、宇都宮信房
    の遠祖である関白藤原道兼に伝授され、その子孫の宇都宮家に伝えられたものである。
    城井一族の滅亡により絶え、その事を知った秀吉は深く悔やんだといわれている。
    豊前宇都宮氏

平安時代後期、鳥羽天皇の中宮、藤原璋子(待賢門院)に仕えた中原宗房は造酒正・待賢門院庁
主典代として活躍した。その孫子、宇都宮(中原)信房は蔵人所衆として京都朝廷に勤仕したのち、
源頼朝の幕府草創に参加して鬼界島追討等の功をあげ、坂井種遠跡の豊前国衛在庁職・伝法寺
庄地頭職などを得て豊前国に入部した。こののち信房およびその兄弟の子孫たちは鎮西(九州)の
地に根を下ろし、関東下野の宇都宮氏とは別個の独自の繁栄を築いた

豊前宇都宮氏の本宗家は「在庁の正統」と自称した通り、豊前国衛を背後からにらむ伝法寺庄を
本拠として在庁官人を支配する「在庁官人的豪族」という特徴をもっていた。豊前宇都宮氏が勢力
を伸張させたのは通房である。通房は得宗の代理人的な地位に立って、肥後守護代を出発点として
鎮西談義所頭人・筑後守護を歴任し、小弐・大友に準ずる豪族的御家人となった。
豊前宇都宮氏の庶子たちは地頭職を配分される、宇佐八幡宮封郷の郷司職を獲得する、あるいは
惣領の代官として、豊前各地に入部した。野仲・山田・成恒・西郷・大和・友枝・佐田などの庶家は
それぞれ在地に根を下ろして大きく成長し、宇都宮一族は豊前最大の武士団となった。
   天徳寺墓参道を上ると 宇都宮氏の墓がある
  宇都宮長甫公(第十七代城主)
 法謚 霊岸院殿徳全長甫大居士

  宇都宮鎮房公(第十八代城主)
 法謚 天徳寺殿久岸宗栄大居士

  宇都宮朝房公(第十九代城主)
 法謚 徹正院殿傑宗道英大居士
              8月18日 施食会にて   宇都宮家菩提供養
   宇都宮氏菩提寺
月光山
天徳寺  豊前宇都宮氏 
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